【再掲】 憲法12条、13条改悪を目指す自民党の思惑を暴く
今日から、1カ月ほど前に書いた、自民党新憲法草案が明確に目指している、国民の基本的人権のはく奪、抑圧を暴く記事を再掲していく。
憲法論については、9条などについて、まだ触れていないが、私は、12、13、18条改悪がもっとも危険だと考えているので、ブログ開設当初で読者も少なかった時期の記事を再掲する。
(以下再掲)
予告より遅くなったが、自民党新憲法草案(改憲案と言わないのは、今の憲法を下に見ているから。)の持つ、反国民的性格と、それを隠蔽しようという「言葉遊び」(条文いじり)を徹底批判する。
改憲問題は、憲法9条の話よりこちらの方が重要だと考える。9条だけを争点にしたがるのは、自民党と共産党である。それぞれ思惑があるのだが、自民党の場合、「自衛のための軍備は必要ではないか」という、漠然とした国民の意識を利用して、9条争点で改憲を行い、実はそこに隠された、これから説明する、国民支配のための、異常な条文の問題を隠そうとしているのだと思う。
今日は、現行憲法(自民党新憲法草案でも同じ)12条、13条について説明する。
下記に、現行憲法の条文と、自民党案を縦に並べた。×がついているのが、自民党新憲法草案である。
第12条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
×第12条 (国民の責務)
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、保持しなければならない。国民は、これを濫用してはならないのであって、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚しつつ、常に公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する責務を負う。
第13条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
×第13条(個人の尊重等)
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
非常によく似ているので、念のため、現行憲法を太字で表示し、自民党が改悪しようとしている部分を赤字で表示した。
もともと憲法12条、13条は、基本的人権の擁護を謳うにあたり、その権利の濫用は防ぐという趣旨で、14条以下の各種基本的人権の「総論」として、個々の人権条項の前に置かれている。
現行憲法(太字)12条、13条をまず読んでほしい。民法と違い、現代語であるから、意味はすぐにわかると思う。
13条で言うように、基本的人権は、「最大の尊重を必要とする」となっている。
しかし、自民党新憲法草案は、2つの改悪をここに加えている。
ひとつは、条文に表題を付けているが、改悪12条には「国民の責務」となっている。
この点は、これを起草したのが、国際政治学が専門で、憲法学の専門家ではない、舛添要一であるにしても、ひどい改悪だ。奴は憲法学の時間昼寝でもしていたのだろう。
それは、憲法という物は、「国家という権力、及びその暴力装置から、国民を守るために存在する」という、現代の憲法学の基本理念を無視して、まるで誰かが(彼らから見れば為政者たる政権)、国民に「責務を負わせる」と書いてある点である。日本国憲法において、現行12条のように、「不断の努力を要する」とは書いてあるが、それは国民が自ら負うべき責務であり、為政者におわせられるものではない。この点がまず、根本的に間違っている。
続いて、条文の中の改悪点である。
基本的人権を制約する事柄として、現行12条、13条では、「公共の福祉」(上記下線部)を挙げている。
それに対し、他の文言を一切いじらないで、自民党の草案では、「公益及び公の秩序に反しない限り」(上記赤字部分)と変わっている。
なぜ変えたのだろう?変えなくてもよいならば変えない。変える必要があると思ったから、似たような文言だが、「公共の福祉」を、「公益及び公の秩序に反しない限り」と変えたのだ。
そこに突っ込んでみる。
辞書を引いてみよう。ただし、法学事典ではないので、その表現はやや曖昧であるが、三省堂の「大辞林」である。
公共の福祉= 社会一般に共通する幸福や利益。個人の利益や権利に対立ないしは矛盾する場合があり、相互の調和が問題とされる。
この青字の部分が重要である。
これは英語では「Public」であり、日本語にされるとき「おおやけ(公)」とされる。しかし、日本では、古来、「公」とは、「お上」を指す意味合いが強かった。そこに誤解が生じる。
しかし、現行憲法の「公共の福祉」とは、まさに、「社会一般に共通する幸福や利益」である。
では、次に、自民党草案の、、「公益及び公の秩序に反しない限り」とはどういう意味で変えたのだろう。 「公益」とは、まるで、上記の大辞林の記述のように、、「社会一般に共通する幸福や利益」にも受け取ることができる。しかし、そのあとも見てみよう。「公の秩序に反しない限り」となっている。
これは、社会一般に共通する幸福や利益、とは大きく違う。あくまでも「秩序」であり、そこには正義や幸福の有無は問われていない。
このわずかな文言の変化を、私なりに意訳すると、自民党の草案では、基本的人権を制限することができるのは、政府や国会が定めた法律などによる「秩序」を優先し、社会一般の幸福や利益よりもさらに限定的に、かつ政府の恣意的に国民の基本的人権を制限できるようにしていると解釈するべきであろう。
違うというなら法学的見解を聞きたい。法学の世界では片言節句でも重要なのだ。
秩序=正義ではない。幸福でもない。どちらかというと全体主義国家で、軍隊が一糸乱れぬように行進しているのが、「秩序」の理想形であろう。
つまり、自民党の新憲法草案では、現行憲法での、「公共の福祉」よりも、「国の都合による秩序」を優先できるように改悪しようとしているのである。
この点は重要である。なぜ、こうしなければならないのか、ぜひ舛添なりに聞いてみたいものだ。
この記事は次回に続け、現在の「公共の福祉」に基づき、人権を制限される場合とその手続きについて解説し、そこから逆に、単に「秩序」だけで、人権を制約できるということが、いかに不当で、権力者に都合がよいようにしようとしているかを暴く。
憲法論については、9条などについて、まだ触れていないが、私は、12、13、18条改悪がもっとも危険だと考えているので、ブログ開設当初で読者も少なかった時期の記事を再掲する。
(以下再掲)
予告より遅くなったが、自民党新憲法草案(改憲案と言わないのは、今の憲法を下に見ているから。)の持つ、反国民的性格と、それを隠蔽しようという「言葉遊び」(条文いじり)を徹底批判する。
改憲問題は、憲法9条の話よりこちらの方が重要だと考える。9条だけを争点にしたがるのは、自民党と共産党である。それぞれ思惑があるのだが、自民党の場合、「自衛のための軍備は必要ではないか」という、漠然とした国民の意識を利用して、9条争点で改憲を行い、実はそこに隠された、これから説明する、国民支配のための、異常な条文の問題を隠そうとしているのだと思う。
今日は、現行憲法(自民党新憲法草案でも同じ)12条、13条について説明する。
下記に、現行憲法の条文と、自民党案を縦に並べた。×がついているのが、自民党新憲法草案である。
第12条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
×第12条 (国民の責務)
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、保持しなければならない。国民は、これを濫用してはならないのであって、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚しつつ、常に公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する責務を負う。
第13条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
×第13条(個人の尊重等)
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
非常によく似ているので、念のため、現行憲法を太字で表示し、自民党が改悪しようとしている部分を赤字で表示した。
もともと憲法12条、13条は、基本的人権の擁護を謳うにあたり、その権利の濫用は防ぐという趣旨で、14条以下の各種基本的人権の「総論」として、個々の人権条項の前に置かれている。
現行憲法(太字)12条、13条をまず読んでほしい。民法と違い、現代語であるから、意味はすぐにわかると思う。
13条で言うように、基本的人権は、「最大の尊重を必要とする」となっている。
しかし、自民党新憲法草案は、2つの改悪をここに加えている。
ひとつは、条文に表題を付けているが、改悪12条には「国民の責務」となっている。
この点は、これを起草したのが、国際政治学が専門で、憲法学の専門家ではない、舛添要一であるにしても、ひどい改悪だ。奴は憲法学の時間昼寝でもしていたのだろう。
それは、憲法という物は、「国家という権力、及びその暴力装置から、国民を守るために存在する」という、現代の憲法学の基本理念を無視して、まるで誰かが(彼らから見れば為政者たる政権)、国民に「責務を負わせる」と書いてある点である。日本国憲法において、現行12条のように、「不断の努力を要する」とは書いてあるが、それは国民が自ら負うべき責務であり、為政者におわせられるものではない。この点がまず、根本的に間違っている。
続いて、条文の中の改悪点である。
基本的人権を制約する事柄として、現行12条、13条では、「公共の福祉」(上記下線部)を挙げている。
それに対し、他の文言を一切いじらないで、自民党の草案では、「公益及び公の秩序に反しない限り」(上記赤字部分)と変わっている。
なぜ変えたのだろう?変えなくてもよいならば変えない。変える必要があると思ったから、似たような文言だが、「公共の福祉」を、「公益及び公の秩序に反しない限り」と変えたのだ。
そこに突っ込んでみる。
辞書を引いてみよう。ただし、法学事典ではないので、その表現はやや曖昧であるが、三省堂の「大辞林」である。
公共の福祉= 社会一般に共通する幸福や利益。個人の利益や権利に対立ないしは矛盾する場合があり、相互の調和が問題とされる。
この青字の部分が重要である。
これは英語では「Public」であり、日本語にされるとき「おおやけ(公)」とされる。しかし、日本では、古来、「公」とは、「お上」を指す意味合いが強かった。そこに誤解が生じる。
しかし、現行憲法の「公共の福祉」とは、まさに、「社会一般に共通する幸福や利益」である。
では、次に、自民党草案の、、「公益及び公の秩序に反しない限り」とはどういう意味で変えたのだろう。 「公益」とは、まるで、上記の大辞林の記述のように、、「社会一般に共通する幸福や利益」にも受け取ることができる。しかし、そのあとも見てみよう。「公の秩序に反しない限り」となっている。
これは、社会一般に共通する幸福や利益、とは大きく違う。あくまでも「秩序」であり、そこには正義や幸福の有無は問われていない。
このわずかな文言の変化を、私なりに意訳すると、自民党の草案では、基本的人権を制限することができるのは、政府や国会が定めた法律などによる「秩序」を優先し、社会一般の幸福や利益よりもさらに限定的に、かつ政府の恣意的に国民の基本的人権を制限できるようにしていると解釈するべきであろう。
違うというなら法学的見解を聞きたい。法学の世界では片言節句でも重要なのだ。
秩序=正義ではない。幸福でもない。どちらかというと全体主義国家で、軍隊が一糸乱れぬように行進しているのが、「秩序」の理想形であろう。
つまり、自民党の新憲法草案では、現行憲法での、「公共の福祉」よりも、「国の都合による秩序」を優先できるように改悪しようとしているのである。
この点は重要である。なぜ、こうしなければならないのか、ぜひ舛添なりに聞いてみたいものだ。
この記事は次回に続け、現在の「公共の福祉」に基づき、人権を制限される場合とその手続きについて解説し、そこから逆に、単に「秩序」だけで、人権を制約できるということが、いかに不当で、権力者に都合がよいようにしようとしているかを暴く。
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『ご遠慮下さい』はむかつくなぁ
よく見かけるお願いの文に,『・・・はご遠慮ください』というのがある。たとえば,以下のようなものを思い出すことができる。
『夜間の電話はご遠慮ください』
『ここから先の立ち入りはご遠慮ください』
『拍手はご遠慮ください』
『タバコの投げ捨ては...
自民党国防部会・・「防衛計画の大綱」
またまた、危険極まりない北の隣人さんが
何やら無謀な実験をしたらしいですね~。
こういうことがあると、ますます喜ぶ輩が・・。
どちら...